Career Break Journal

同じ境遇の人に出会って、「無職です」と言えた──そこから転機が動き出した

同じ境遇の人に出会って、「無職です」と言えた──そこから転機が動き出した

10年間勤めたメーカーの研究職を辞め、海外へ飛び出し、それでも迷い続けた末に「キャリアブレイク」という言葉に出会ったたかさん。今は地元群馬のコワーキングスペースで働きながら、次のキャリアの輪郭を探している。

インタビュイー

萩原孝行(はぎわら・たかゆき) 群馬県渋川市在住。大学・大学院で6年間工学を学び、2014年に大手メーカーに研究職として新卒入社。10年間勤務した後、2024年7月に離職してオーストラリアへの語学留学へ。帰国後の焦りの最中「キャリアブレイク」という言葉と出会い、地元群馬へUターン。現在は、株式会社ATOMicaに就職をし、群馬にあるコワーキングスペース「NETSUGEN」の運営メンバー。


たかさんのキャリアブレイクは、決して晴れやかなだけのものではなかった。不安を抱えたまま前に進み、時に立ち止まり、また歩き出す。そんな「タフゲーム」としてのキャリアブレイクを、本人の言葉とともに振り返る。

役職が上がるほど強まった違和感

大学・大学院と6年間工学を学び、2014年に大手メーカーに研究員として入社したたかさん。10年勤めたその会社を辞めたのは2024年7月のことだ。


きっかけは、はっきりとした一つの出来事ではなかった。2023年4月ごろ、任される仕事の範囲が広がり、立場も大きくなった。それと同時に、職場の人間関係がしんどくなっていったという。

結構嫉妬されるじゃないですけど、周りからいろんなことを言われる。やることに対して文句を言われたりとか。

ある時、眠れなくなった。どうしていいのか分からず、これからどこへ向かえばいいのかも見えなくなっていた。 そんな時、知り合いから教えてもらったのが、「自分自身を振り返るオンラインワークショップ」だった。 そこで出会った人たちから言われた一言が、たかさんの視界を変えた。

『やめてもいいんじゃない?』って言われた時に、『あ、やめるっていう選択肢ってあるのか』みたいな感じで。

もっとも、辞めたい理由として本人が最初に語っていたのは「転職したい」ではなかった。「研究職自体をあまり面白いと思っていなかった」という本音に気づいたころ、ふと出てきたのが「海外に住んでみたい」という言葉だった。それが、仕事から離れるための、自分の中で腑に落ちる理由になった。

場所を変えて気づいた、変わらない自分

34歳での退職。ワーキングホリデーの年齢制限に引っかかり、選んだのは観光ビザで最大3ヶ月滞在できる語学留学だった。行き先はオーストラリア。

出発直前、有給消化期間に入ってから、たかさんは激しく落ち込んだ。「本当に行きたいのかな」と迷い、キャンセル料まで問い合わせたという。最後に背中を押したのは、当時の奥さまの「行ってみなきゃわかんなくない?」という言葉だった。


現地での3ヶ月は「めちゃめちゃよかった」と振り返る。ただし、そこで得たものは異国での高揚感だけではなかった。友人との関わり方の中に、日本にいた頃と変わらない自分の立ち居振る舞いを見つけたのだ。

海外に行こうが、自分のポジションってなんか、日本と似てんなみたいな。場所を変えたからこそわかる、自分って別に環境依存しない部分もあるんだな、っていうのは面白いなと思いました。

知り合いのいない場所に一人で立ち、見知らぬ景色を前にしたときの感覚も、今も覚えているという。「自分でこの景色を創れたんだな、みたいな達成感はあったかもしれない」。

止まれない焦りの中で

2024年10月、日本に帰国。だが、ここからが本当の迷走期だったとたかさんは言う。

会いたいと思った人に会いに行き、転職サイトに登録し、副業を調べ、海外との仕事のつながりを探る。対馬で漁師の弟子をしている知り合いを訪ねては、喝を入れられもした。「ちょっとふらふらしてんな」と言われながらも、その言葉のどこかに納得する自分もいた。

止まるとなんか、やばい、なんかしてない不安が多分あったと思っていて。

転職エージェントとも話を重ねたが、紹介される求人にはどこかピンとこなかった。焦りと不安が大きかったと振り返る一方で、「最悪、元の会社に戻る手段もある」という感覚が、かろうじて自分を支えていたとも語る。

「自分だけじゃない」という肌触り

転機になったのは、兄から届いた1本の記事だった。「キャリアブレイク」という言葉を知ったのは2024年12月。帰国から2ヶ月が経っていた。

キャリアブレイクという言葉を知ったとき、これだよ、みたいな。まさに、働きたくないわけじゃなくて、ただどうしていいかわからない状態にいる。

すぐに問い合わせをした。最初はキャリアブレイク研究所が運営する「月刊無職」という自身のキャリアブレイクをエッセイ的に綴るライター募集に応募したが、ちょうど今期のメンバー募集が終了したところだった。それでも、キャリアブレイクという言葉と出会ったことの意味はあった。

自分以外にもいるんだな、っていう肌触りが一番、安心感がありました。病名じゃないけど、『あなた今こういう状態なんですよ』っていうのがわかった。

同じ月に、たかさんは奈良にあるキャリアブレイク経験者が集う「OKAYU HOTEL」という宿を訪れ、同世代の女性たちとも言葉を交わした。「わかる、わかる」「そうそうそう」。その共感の中に、それまで感じたことのない心理的な安心があったという。

その後、キャリアブレイクのコミュニティである「むしょく大学」にも参加。そこで出会った、休職・離職から半年、1年という「先輩」たちの存在も大きかった。「そういう時期もありますよね」と笑って受け止めてくれる人たちがいることで、転職活動を急ぐ気持ちに、少しブレーキがかかっていった。

ゆっくりする、という経験

たかさんは群馬の実家に戻ることを決める。「ちょっとゆっくりしよう」と思って帰った場所で、初めて味わった感覚があった。

仕事だけじゃなくても、別に自分が帰ってくる場所もあるんだな、って。やっと落ち着いて自分の時間を持てたときに、『あ、この景色好きだったな』とか、『この時間の流れ好きだな』っていうのを味わえた。

焦らなくてもいい。そう思えたことで、原動力の質そのものが変わっていったという。「不安とか焦りみたいなエネルギーから、ちょっと好奇心みたいなものに」。ただし本人は、それが一気に切り替わったわけではないとも付け加える。「不安50、好奇心50、ぐらい」。

2025年2月からは、むしょく大学を主催するゼミに参加した。ゼミはむしょく大学に参加するキャリアブレイク中の人たち6名が参加。半年間のゼミだった。毎週顔を合わせて話す中で、たかさんは他者と話しながら自分自身を振り返っていることに気づいていく。

一週間の自分の気づかない変化を、話してるとまた自分で気づけたりして。

転職サイトを眺める時間は、少しずつ減っていった。

地元との再接続、そして今の仕事へ

ある講演でのイベントをきっかけに、地方創生に取り組む会社を知り、地元への関心が言葉になっていく。「最終的に今の自分の居場所、今の地元がすごい好きだなって感覚がすごいあったから」。

その求人に応募するためにWantedlyというサービス登録した。すると、コワーキングスペース「NETSUGEN」を運営するATOMicaからオファー面談の連絡が来た。「コワーキングって、あ、こんなのがあるんだ」。ここから、今の仕事につながっていく。

もっとも、ATMicaに入社したいと面接を受けたが、一度は不採用を経験している。最初に受けた本部側のポジションは通らなかった。「人と話すのが好き」という自分の芯に立ち返り、現場職として改めて応募し直したことで、道が開けた。

入社して1年。「後悔的な部分はゼロに近くて、いろんなプレイヤーの人と会えて、視野が広がった」とたかさんは話す。今後は会社員としてだけでなく、自らイベントやポップアップショップを企画する側にも回っていきたいと考えている。拠点は群馬にこだわらず、可能性があればどこにでも、という。

転機をつくったのは、人だった

一連の転機を振り返って、たかさんが挙げるのは「人」との出会いだ。

自分の知らない視点を持っている世界の人、生きている人たちの話を聞く。それこそキャリアブレイクという世界を新しく知った時とか。そういうところで、今までの流れのスピードや方向が変わってた気がします。

気になる人がいたら、とりあえず会いに行く。時間があったからこそ大切にできたマインドだったと振り返る。

そして、もう一つ。たかさんが「やってよかった」と語るのは、ただ立ち止まり、何もしない時間を過ごしたことだ。

動かない自分を、許すというか、愛するみたいな。それができるようになって、やっと『自分は何もしてないよ』とか『無職です』っていうのを、心から言えるようになった気がして。

なぜ、立ち止まる時間が大事なのか。たかさんはこう語る。

考えるんじゃなくて、直感とか、『あ、この空気いいな』とか感じるのって、走ってると私の場合はわからなくて。止まってみて、『風って流れてるんだ』とか、『今自分ってしんどかったんだな』とか。外部と内部を観察して感じるために、止まる。

キャリアブレイクは、決して晴れやかなだけの時間ではない。不安と葛藤を抱えながら、それでも自分の人生をつくっていく。たかさん自身がそう語るように、それは「とてもパワフルなタフゲーム」だった。そのゲームの途中で出会った人たちとの関係が、今のたかさんを支えている。

2026年08月22日

PARTNER

キャリアブレイク経験者

キャリアブレイク経験者

萩原孝行さん

群馬県渋川市在住。大学・大学院で6年間工学を学び、2014年に大手メーカーに研究職として新卒入社。10年間勤務した後、2024年7月に離職してオーストラリアへの語学留学へ。帰国後の焦りの最中「キャリアブレイク」という言葉と出会い、地元群馬へUターン。現在は、株式会社ATOMicaに就職をし、群馬にあるコワーキングスペース「NETSUGEN」の運営メンバー。

WRITER

北野 貴大

北野 貴大

代表理事 / 一般社団法人キャリアブレイク研究所

2014年にJR西日本グループに新卒で入社し、都市開発に従事。妻のキャリアブレイクをきっかけに、キャリアブレイク中の人のための宿「OKAYU HOTEL」を2021年にスタート(現在は奈良で運営中)。退職後、一般社団法人キャリアブレイク研究所を理事2人と共に2022年に設立。2023年より、大阪公立大学大学院経営学研究科付属イノベーティブシティ大阪ラボ特別研究員。

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